子宮頸がん治療回想録とゆるゆるな玄米菜食と日々の暮らし

2020年12月、念願だった中古住宅を手に入れることが出来ました。アラフィフ、シングルのがんサバイバーです。淡々としぶとく生きていく。そんな自分を楽しみながら暮らしていくブログです。

回想録 その3 排尿障害

肌は弱い方で、何に反応してるのか、たまに赤くなって痒くなるときがある。

あのいつかの内診してくれたひょっこりはんみたいな先生の声が聞こえた

「何か、湿疹かな」「肌弱いらしいです」と麻酔科の先生。

手術前日の麻酔の説明の時、肌の状態も説明しておいた。

手術から目が覚め、その先生らの会話とともにベッドに移された。

それからまた朦朧とする。

お父さんが必死に名前呼んでる、叔母も呼んでくれてる。

目は開けない、耳で聞こえ、「ありがとう」と答えた。

意外にしっかりしてる。

気持ち悪さもない、呼吸が浅いとか、熱ぽいとか寒気がするとか一切なく自分でもびっくりするほど大きい声で言えた。

「無事終えたよ」叔母の言葉か嬉しかった。

また朦朧、もうろう、モウロウ……。

昼も夜もわからない。

心電図のモニターの音。

足に付けられたリンパ浮腫防止の為のブーツみたいなのからエアーの音が聞こえる。

寝返りできない、頼れるものはナースコールのボタンがすべて。

床ずれ防止に体の向きを直してくれたはいいが、ナースコールのボタンまで気遣ってもらえず、手元から遠い、どうしよう、心細い…。

看護師さんたちの間ではとにかく早く体を起こしましょう、早く歩きましょうみたいな雰囲気があり、寝返りもままならない時にベッドのリクライニングのリモコンをノンストップで動かされた。

あとで、入院友達に言ったら

「富士急ぢゃん」と言われた(笑)

ひとり年配の看護師さんが「何か不安なことある?」と言って手を握ってくれた。

マザー・テレサだと思った。

食べれないのはもちろん、時間さえわからない、テレビも見る気にならない、とにかくつらい時間か過ぎてく。

そんなときに、感謝する。

それから集中治療室最後の日担当になってくれた看護師さんも優しくて涙がでた。

そして普通病棟に戻った。今度こそ、ベッドでカラカラ運ばれた。

担当の看護師さん、入院してすぐだったか、離婚の決め手は何だったですか?みたいな話をしたかな、入院初日、元義理母が付いてくれた。だから不思議に思ったのかもしれない。

旦那とは色々あったが、義理のお父さんとお母さんには可愛がってもらった。

普通病棟の部屋に近づくと元旦那と元義理母がいてくれた。

お母さんは私の顔を両手で包み込んで「良かったね、終わったね」と言ってくれた。

「この人元旦那」

元旦那の方に指をさし、担当の看護師さんに教えてあげた。

 

今日はとりあえず部屋の入り口まで歩きましょう

看護師さんに靴を履かせてもらい、点滴ひっぱりゆっくり歩く。

すんごくゆっくり。

次の日は廊下。

日が増すにつれ、歩く距離が延びてく。

後々、スイカが食べたくなって近所のマーケットに買いに行けるまでに。

お粥が食べれるようになり、体につけられていた管も取れていった。

リンパ浮腫防止の為の専用のきつめの靴下も履いてたけれど、前にも触れたように湿疹が出来てしまって、途中から包帯に変わった。

朝と夜、それぞれ違う腕に皮下注射が打たれた、血栓予防のため。

排尿訓練か始まった。

自尿を計り、看護師さんが膀胱から管を通し、残尿を測る。それが50cc未満が3回続いたら合格。

私は…

便座に座ってもでない、っていうかどうしてオシッコ出してたのか忘れちゃった💧

主治医に話したらそれが排尿障害ですと言われた。

大変なのはこのあと。

当然、オシッコは出さないと。

自分で、膀胱にカテーテルを入れて、オシッコを出す手技を看護師さんから教えてもらったがなかなかできなかった💧

カテーテル入れるとき怖い気持ちが先にでる。

これが出来ないと退院できない。

抗がん剤も控えてる。

他の人はどうしてるんだろ?

 今でこそ、ブログなんて書いちゃてるが、まだその頃は人のブログなんてみれなかった。手術前の病気受けいられない気持ちが、こわさが、まだあった。

が、入院友達に相談してスマホで検索、一緒に見てもらった。

病棟は婦人科、形成外科、あと毎週白内障の方が一泊する。

部屋にもテレビがあったけれど、みんなが集まって見れる簡単なフロアがあった。

そのおかげもあってか、そこで他の患者さんとコミュニケーションがとれ、入院友達が何人かできた。

メンタル面で、これは本当に助かった!

情報交換もできた。

結局退院が延び、退院というよりも外泊みたいな2日間だけ家に帰れた。